忌野清志郎というゴールが消えた日
信じられないニュースが続く中で、何よりも驚かされたニュースだった。
確か2年前、竹中さんの舞台を見終わって楽屋を尋ねた時に、
僕の目の前に並んで立っていたのが、清志郎さんだった。
実はその時の清志郎さんは髪も短く痩せていて、似た別人とも思えて確信が持てず、
目の人が清志郎さんだと確認出来たのは去った後の事だった。
僕が挨拶し損ねてしまった事を悔やんでいたら、
竹中さんが清志郎さんと一緒に撮った写メールを僕に転送してくれた。
僕がこの目で清志郎さんを見たのは、それが最後になってしまった。
その一年後、清志郎さんが復活してステージに立つと聞いたのだけど、
だからと言って、LIVEを観に行くという事はなかった。
完全復活と聞いて、これからもまだ観る機会はあると思っていたから…
というより、正直なところ、最近は清志郎さんの歌を余り聴いてなかった。
それは自分がもう寂しくなくなってたから?
人恋しく多感だった頃は、RCサクセションの曲に慰められ、励まされてた。
清志郎さんの歌は恋に苦しむ僕の心のサントラだった。
「スローバラード」「共犯者」「Oh! Baby」…
そして時には、社会に対する皮肉的な歌詞やスタンスが、
サラリーマン時代に労働組合で活動していた頃の僕を励ましてくれてた。

僕の別名となっている「ボバ」という言葉は、
ちょうど20年前の1989年4月18日、
RCサクセション『HARD TIMES LIVE 1989』名古屋公演の客席で生まれた。
(※ 詳しいエピソードはオフィシャルサイトのWhat's BoBAに掲載)
そして現在、僕が「ボバ」を襲名しているという事は、
いつか清志郎さんから「ボバ君!」と呼ばれる事が僕にとってのゴールだった。
出来るなら「何故キミはボバと呼ばれているのかね?」と聞かれたかった。
でももう、それは叶わぬ夢となってしまった…
1990年末のクリスマスの日に上京した僕は、
愛知県からバイクで杉並の新居アパートに辿り着いたその足で、
クリスマス恒例の日本武道館での『10th WINNER NIGHTS TOUR』を観に行った。
僕にとっては東京暮らし1日目を記念したイベントだった。
恐らくこれが、RCサクセションとして最後のライヴだったんじゃないかと思う。
そして翌年に竹中さんと知り合い、その界隈で活動をしている内に、
清志郎さんが少しずつ近い存在に感じられるようになっていった。
岩松了監督の『お墓と離婚』で清志郎さんが映画に初出演すると聞いて、
どうしてもその作品に参加したくなった僕は、
キャスティングされていた鈴木伸幸氏の衣装合わせに同行して、
岩松さんに出演を嘆願した事もあった。
僕は本編では背中しか映されなかったチョイ役だったものの、
現場で等身大の清志郎さんに逢えた事に大いなる喜びを感じてた。
ファン丸出しの僕は、素直にサインと写真を求めてたよ。
思い出せば、清志郎さんの存在は、
僕をここまで導かせた何かであった事に気付かされる。
人との出逢いや繋がりが清志郎さんの歌を軸に導かれていたんだなと…
清志郎さんが消えた今になって、
音源や映像を再確認しながら、忘れかけていた自分を掘り起こしてる。
『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』の清志郎さんのMCが何故だか切ない。
「みんなに聞きたい事があるんだ」の後に繰り返された言葉…
「愛し合ってるかぁ~い?」
聞き慣れてたはずのお約束の清志郎さんの言葉が、
こんなに泣けてくるとは思わなかった。
僕は清志郎さんの歌を愛してたんじゃなくて、
清志郎さんの歌に愛されてたんじゃないかと思えてくる。
その事に気付きもしないで、感謝を忘れ掛けてたのかな…
最後だった復活ライヴを観に行かなかった事が悔しくてならない。
あの時、清志郎さんに気付くのが遅れてしまった事も…
そして「ボバ」なんて呼ばせる機会は今までだってあったはずなのに…
「また今度なんて思ってるうちに、みんな消えちまうんだぜっ Baby」
僕の中の忌野清志郎が、ステージからそう言ってる気がした。




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