折り鶴を傍らに母眠りけり

寒中お見舞い申し上げます
寒さ厳しき折 皆様にはお変わりございませんか
久し振りにブログを書きます
昨年末12月28日に母 田中よし(享年91歳)が永眠いたしましたため
年頭のご挨拶を控えさせていただきました
報告が遅くなり大変失礼いたしました
本当に親の死に目に会えませんでした
茨城で午前中の撮影を終えた時に母の危篤を知り
老人ホームから搬送された恵比寿の病院に駆けつけましたが
母はすでに冷暗所に移されていました
診断書には「老衰」と書かれていました
母は僕の自宅近所の老人ホームに入所していましたが
昨年からのコロナ禍の影響により、面会禁止で逢えないままでした
でも高齢で子供返りしたようにも見えていた母が
このご時世で家族に逢えない事情を理解していたのか不安でした
三ヶ月ほど前から食事の量が落ちてしまったと聞き、とても心配していました
家族が逢いに来なくなったことで生きる気力を失っていってしまったのではないか?
母は家族と隔離生活をすることで感染こそしなかったけれど
家族にも逢えない寂しさや虚しさが死を早めた気がしてなりません
10年程前に母を信州から東京の保健施設に移住させて
以来、年越しは出来る限り一緒に過ごすようにしていました
世の中が平常であれば 半年前に完成した新居に招いていたはずでした
病院での遺体の安置を勧められましたが 自宅に運んで貰いました
せっかく母が宿泊できる部屋も作ったのに
見知らぬ部屋に置いて帰ることは出来ませんでした
母の車イスのことを考えて作った玄関スロープは
母の亡骸を運ぶストレッチャーが最初で最後となってしまいました
バリアフリーの新居を見て貰えなかったのが無念でなりません
母は27年前に脳内出血で倒れ、以来、右半身麻痺の生活でした
利き手ではなかった左手で日課のように折り鶴を作り続けていました
その数はおよそ十数万個に及ぶと思います
母の折り紙箱を見たら、未完成の鶴が幾つも見受けられました
作業の途中で疲れて諦めては、また作ろうとしていたのでしょう
最期まで折り鶴を作り続けようとしていた形跡に胸が締め付けられました
未完成の折り鶴は僕が続きを手伝い 母の亡骸とともに三夜を過ごしました
大晦日に東京の家族だけで火葬のみを済ませました
東京は感染者急増でナーバスな状況にあり
兄姉や親族は他県在住なので上京させるのを遠慮しました
お花だけでなく、自分が作った折り鶴に包まれた母の棺は
写真を撮りたくなるほど華やかでした
骨壷に入った母が遺影と共に初めて新居のリビングに上がりました
存命ならば、今年は確実に年越しの外泊許可も貰えなかった事情を考えると
骨になることで年越しを一緒に過ごすことが出来たのかもしれません
色んなこと思い出します
実家で母と二人で暮らしていた頃
毎年と言って良いほど年越しの準備が間に合わず
紅白歌合戦を眺めながらバタバタしていたこと
僕が会社を辞めて上京すると聞き 発狂して食器を投げつけた母が
翌日 蕎麦を食べに行った帰りのバスの中で許してくれたこと
いつになく小さく見えた母の背中に涙が溢れたこと
上京3年後 母が倒れた知らせを受けて
真冬の深夜の中央道を亡き父に叫びながらバイクで駆け付け
手術室に向かう母が僕の声に片手を上げてくれたこと
不自由になった身体に苦しみ
実家に帰りたがり
僕に求婚をしてみたり
見えない存在と対話していた時もあったけれど
それを乗り越えた母はいつも笑顔で迎えてくれていた
ありがとう
それなのに
ゴメンなさい
一度は臨終しかけて それから27年も延命をしてくれていたのに
大して返してあげられなかった
母は明日も生きている 来年も生きている
知らぬ間にそんな気がして甘んじてた
もう一度一緒に暮らしてあげたかった
コロナ禍が終息するまででも家に引き取るべきだった
感謝と後悔と謝罪を繰り返してばかりいます
コロナ禍は再び深刻な状況に陥っています
感染による死別こそ辛いことはありませんが
老人施設で隔離状態のまま死別になってしまうのも耐え難いです
同じような悲しみを増やさないためにも
一日も早く平穏な日常を取り戻すことを祈るばかりです
最後までお読みいただきありがとうございました
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